下谷龍泉寺町

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 樋口家が荒物屋開業のために住んでいた住所は、東京市下谷区下谷龍泉寺町368番。明治26年1893年)7月20日に菊坂町69番地からこの地に転居、8月6日に荒物屋を開業した。明治27年1894年)5月1日に丸山福山町4番に転居し、この地を去る。この町で執筆されたのは「琴の音」と「花ごもり」。下谷龍泉寺町での体験から「たけくらべ」、「わかれ道」の二編が創作された。

 一葉が下谷龍泉寺町を選んだ理由の一つは萩の舎の人々など知人が来ない場所だったためである。神楽坂も候補となったが安藤坂からほど近いことから選ばれなかった。伊東夏子は、荒物屋へ来たら絶交すると告げられ、一度も訪問しなかった。

 一葉は仕入れを行い、邦子は店番と針仕事、母は台所の仕事を分担した。一葉らの荒物屋開業は当初かなりの成功を収めて、近隣の二軒が廃業に追い込まれた。荒物として、紙、渋団扇、蝋燭、石鹸、マッチを取扱。子供用に駄菓子や玩具を置いた。子供用品は神田の多町に一葉が買い出しに出かけた。これでは、一葉は親類にしか「ねえさん」と呼ばれたことはなかったが、知らない人から「ねえさん」と呼ばれるようになった。

 田辺巡査と知り合い、下層社会の救済に関して話す。この時期から一葉は下層社会問題を意識するようになったと思われる。また巡査は姉妹のどちらかに縁談の申し入れをした。

 明治27年1894年)1月7日、斜め右向かいに同業の野澤駄菓子やが開業。その後、売り上げが急速に落ち込む。

 この時期の日記は「塵中日記」あるいは「塵之中」と題され、転居前の明治26年1893年)7月15日の引越し先探しから始まり、明治27年1894年)5月2日までが書かれている。

  • 一葉は龍泉寺の時代に、夏期には薩摩絣、寒くなると唐桟を着ていた。
  • 隣は人力車の車夫の家だった。
  • 12月20日に植木屋が来ており、庭があったと思われる。
  • 吉原の大門を入ってすぐ左の里俗伏見町にあった引手茶屋の伊勢久(経営者・谷田こう)の木村ちよから丸山福山町の家を紹介されたという説がある。

日記

関連情報

  • 饗庭篁村は安政2年8月15日に、この地の下谷龍泉寺町に生まれた。そのことから、「龍泉居士」と自称した。