伊東夏子

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 明治5年1872年)6月10日、日本橋生まれ、昭和21年12月7日没。萩の舎で知り合った一葉の友人。明治31年に田辺与荘と結婚し、田辺夏子となる。

 日本橋の鳥問屋東国屋の伊東伊兵衛の戸籍上の次女。母の伊東延(のぶ)と共に伊東祐命の元で和歌を学んでいたが、その後、母が萩の舎に入門したことから、一葉よりも早く明治15、6年ごろに11歳で萩の舎に入門。樋口夏子と伊東夏子と同名だったことから、一葉は「ひなつちやん」、伊東夏子は「いなつちやん」と呼ばれた。駿台英和女学校でバプテスト派の洗礼を受け、東京基督教青年会に入った。田中みの子を含めて平民三人組と称していた。一葉の親友であり、金銭的援助も行っていた。また外国文学の知識を与えた。キリスト教の信仰に熱心であり過ぎると一葉は考えていた。明治25年3月20日に国学者の久米幹文の元で学ぶことを一葉に提案するが、たきの反対で頓挫。この時期に、萩の舎では中島歌子の学のなさに対する反発を弟子たちが抱いていた。

 彼女は半井桃水をやくざものと考え、一葉との交流に対して批判的だった。明治25年(1892年)6月12日に彼女は一葉に直接遠ざけるべきだと意見している。

 一葉の病状が悪化した頃、伊東夏子は丹羽清次郎を通じて副島八十六から一葉への紹介を依頼される。明治29年9月6日に副島は伊東から紹介状をもらい、一葉宅を訪ね1時間ほど対話をする。その後、一葉の死を伊東夏子宅で知り、副島は一葉の葬儀に赴くことになり、一葉の葬儀に関する資料を残すことになった。

 鳥問屋東国屋は江戸時代の有名な鳥問屋で、特に享保期の東国屋伊兵衛の名が著名。吉原芸者や芝居者との交遊があった。伊東夏子の母の伊東延は男兄弟が亡くなったことから鳥問屋を引き継いだ。父から入籍を許されなかったため、延は一人親として娘の夏子を育てた。

  • 伊東夏子が明治29年11月に一葉を訪問した時、大橋時子からもらった松茸を見せてくれた。伊東夏子が「松茸や野に伏勢の下甲(したかぶと)」という句を口すさんだところ、「あらほんといいわね」と笑ったという。この句は尾崎紅葉の「松茸や野に伏勢の直兜」と思われる。
  • 一葉の没後、一葉に対する田辺花圃の批判的な言動とは異なる立場から、伊東夏子は一葉について語った。
  • 河野龍也によると、初代・市川左団次(1842-1904)のファンだった。
  • 伊東家の女中はおとく。
  • 子供は三男一女で、健吉郎、譲二、松枝、秀穂。
  • 明治31年に結婚後は牛込や金沢に在住。夫の田辺与荘は陸軍将校。日露戦争後に夫は予備役となり、山口県豊浦郡長府村古江小路で長く住み、同地で夫は死去。第二次大戦前に、大磯、原宿で過ごし、昭和18年に山口県下清水町に転居し、同地で没した。
  • 三男の秀穂は『樋口一葉全集』第3巻(上)付録に「母と一葉」の一文を寄せた。いくつかのエピソードを書き残した。一葉と伊東夏子はお風呂にも一緒に入り、背中を流しあったという。両親は教会で知り合い結婚。夫には離婚歴があった。

伊東家の場所

  • 幼少期は東国屋のある本小田原町7番地在住。そこから小学校に通った。
  • 本郷区駒込千駄木町 - 団子坂
  • 神田区南甲賀町8番地 - 明治22年1889年)~。同年に駿台英和女学校に通う(明治25年7月卒業)。
  • 牛込区東五軒町54番地 - 明治27年1894年)2月~
  • 牛込区小川町3丁目1番地 - 明治27年1894年)10月~

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