佐々木弘綱

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 文政11年7月16日(1828年8月26日)生まれ、明治24年1891年)6月25日没。国文学者・歌人。号は竹柏園(なぎぞの)。弘綱の名前は足代弘訓の弘から取られた。

 弘綱は故郷の伊勢で(本居宣長の系列の)足代弘訓に学び、足代の死後に江戸に上京し(岸本由豆流や一柳千古の系列にある)井上文雄の許で学ぶ。その後、明治10年に鈴屋社の依頼で松坂に転居。明治15年に東京に移り、東京大学文学部古典科講師として赴任。明治18年、病により講師を辞職。

 荻野由之に始まる長歌改良論争では、万葉集を評価する真淵派の海上胤平との対峙した。海上は七五調の絶対論に対して、雅豊かな五七調をベースにした長歌の改良を提唱した。山田美妙は弘綱を支持しながらも七五調に固執する必要はないと主張した。一連の論争はその後の短歌改良論へとつながることになる。

一葉との関係

 佐々木弘綱の門下だった松永政愛宅で、一葉は松永の妻から裁縫を学んでいた。明治18年に、松永政愛の家に佐々木弘綱と息子の佐々木信綱が訪れたとき、一葉と面識を持つ。父則義は一葉を佐々木弘綱に入門させようとも考えていたが実現しなかった。