大橋乙羽

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 明治2年6月2日(1869年7月10日)生まれ、明治34年(1901年)6月1日没。文筆家・編集者。硯友社に参加。

 明治27年12月、大橋乙羽は博文館の社主の大橋佐平の娘の大橋時子と結婚。入婿となり、大橋姓を名乗った。結婚の媒酌人は尾崎紅葉。同時に、乙羽は博文館の専務理事・支配人として要職を務めることになった。知人の小川一真の勧めもあり、写真技術を学びながら雑誌への写真の導入を積極的に行い、写真を掲載した『日清戦争実記』は好調な売上を伸ばした。文学では、泉鏡花、樋口一葉、高山樗牛、田山花袋など新進作家を取り上げることで、経済的な支援を行った。政界では、伊藤博文、山県有朋、大隈重信などから信頼を得ていた。『藤候実歴』では、乙羽は伊藤博文の話を口述した。

 明治28年(1895年)、半井桃水の紹介から大橋乙羽は博文館の編集者として樋口一葉に注目するようになり、博文館での宣伝によって一葉は文筆家として成功を収めることになった。

 時子の勧めで、大橋佐平の息子の大橋新太郎と一葉の間に縁談があったという逸話がある(板垣直子『評伝 樋口一葉』。伊東夏子から聞いた話を平田禿木から板垣直子が聞いた)。時子は佐々木信綱の竹柏会の和歌を学んでいたが、一葉の自宅に通い和歌を学んだ。

 結婚して小石川区戸崎町61番地に新居を持ち、明治33年ごろも在住。小石川植物園の南側で、一葉宅からの距離も近かった。泉鏡花尾崎紅葉宅から移り、寄宿した。

  • 生家で経営していた旅館が乙羽屋だったことから筆名を乙羽とした。
  • 大日本写真協会の技術委員。岡倉天心との知遇から日本美術院の賛助会員。
  • 巨大災害のジャーナリストとして著名。磐梯山噴火の災害をルポルタージュを出羽新聞に発表したことから神田の書店・東陽堂に入社。『風俗画報』の編集に加わり、濃尾地震の特集では、現地取材は東陽堂社長の吾妻健三郎と画工の寺崎廣業が取材、乙羽は編集者の一人となった。その後、博文館に移籍した乙羽は明治29年1896年)6月15日に明治三陸地震が起こると写真機を持って現地を取材。「文芸倶楽部」特集号を組み、原稿料と販売利益金を災害の義捐金に充てた。
  • 乙羽の主宰する近喜会には、幸田露伴内田魯庵が参加していた。
  • 田山花袋には、紀行文の執筆を依頼したが、彼の小説は評価しなかった。
  • 帰国後にインフルエンザが発症、その後に腸チフスとなる。明治34年2月29日に帝大病院に入院。青山胤通が治療を行うが、入院中の6月1日に死去した。