尾崎紅葉

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 1868年1月10日(慶応3年12月16日)江戸の芝中門前町生まれ、1903年(明治36年)10月30日没。本名は徳太郎。明治24年2月以降は牛込横寺町47番地で鳥居家の母屋を借りて住み、住居を「十千万堂(とちまんどう)」と呼んでいた。表札は自筆で「尾崎徳太郎」。別号は紅葉山人。

 硯友社山田美妙と設立。『金色夜叉』など明治の流行作家。弟子には泉鏡花徳田秋声などがいる。明治20年代には、幸田露伴と並び称され、紅露時代と呼ばれた。明治20年代には読売新聞の文芸欄は紅葉の硯友社が中心となった。山田美妙が無断で雑誌「都の花」の主筆となったことから硯友社を離脱し、反目しあうことになる。

 半井桃水の紹介で樋口一葉を弟子にする話があったが、萩の舎でのトラブルで頓挫することになった。半井桃水は尾崎紅葉との体面上、一葉に断り状を書かせることになった。

 一葉は尾崎紅葉の本も読んでおり、樋口家には一葉の蔵書と思われる尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』(明治22年1889年)、原文外部リンク)が残されている。

 「にごりえ」の構想時に、一葉は尾崎紅葉の「心の闇」と「男ごころ」を借りて読んでおり、「にごりえ」への影響を井狩章が論じている。「心の闇」は尾崎紅葉の代表作の一つと評価される心理小説。平田禿木も「文学界」17号で「心の闇」を称賛する批評を掲載した。

 明治28年10月には、紅葉は友人等と俳句グループとして秋声会を結成し、大野洒竹戸川残花岡野知十も参加した。

  • 伊東夏子明治29年11月に一葉を訪問した時、大橋時子からもらった松茸を見せてくれた。伊東夏子が「松茸や野に伏勢の下甲(したかぶと)」という句を口すさんだところ、「あらほんといいわね」と笑ったという。この句は尾崎紅葉の「松茸や野に伏勢の直兜」と思われる。
  • 硯友社の同人は紅葉館を頻繁に利用した。
  • 明治27年春陽堂から出版された尾崎紅葉の『心の闇』には、川上眉山の小説「行水」が同時掲載。