川上眉山

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 明治2年3月5日(1869年4月16日)大阪生まれ、明治41年(1908年)6月15日没。本名は川上亮(幼名は幾太郎)。別号に烟波散人、黛子(たいし)、玄雪、羅白(らはく)など。一葉の家を訪れる時期は、小石川上富坂町40番地に住んでいた。

 明治28年1895年)5月26日に始めて一葉と会い、その後も一葉宅を訪れることになる。この時期に一葉はにごりえの構想を考えていた時期にあたる。眉山は尾崎紅葉と共に研友社グループで当時新たに評価された作家の一人だった。彼の小説は「観念小説」と呼ばれ、人間や社会の矛盾をテーマとした純文学作品を発表した。その後、文学界グループとも親交を深める。この5月26日の訪問では、一葉と眉山の合著で春陽堂からの著書の出版を、眉山は一葉に提案している。眉山は馬場孤蝶平田禿木から一葉の著書の出版の計画を託されて、一葉を訪問していた。

 明治28年6月2日、眉山が一葉に自伝を書くことを勧めたことは「にごりえ」執筆のアイデアとなったといわれる。その際には、眉山は銭湯に寄る予定で手拭を持って現れた。

 一時期は樋口一葉と婚約したという噂が流れたこともあった[1]。明治29年の「読売新聞」の新年会で、高田早苗は眉山の肩を叩いて、自分が仲人になろうかとふざけたとの記述がある。明治29年6月20日、高田早苗は川上眉山を通じて一葉に「読売新聞」への入社を提案したが、一葉は断った。川上眉山は一葉の拒否に憤慨した。

 父の死後に春木町の下宿から富坂町へ引っ越した。内田魯庵によると、その当時は亡き父の膨大な負債に悩まされていた。富坂時代には、思想家の高瀬文淵黒川安治)と同居して議論を交わしていた。春木町時代までは暢気な性格で作風もそうしたものだったが、富坂時代から文学界の同人と接近して悩める詩人というテーマに共鳴するようになった。

  • 父親は川上榮三郎で、明治29年4月頃に死去。
  • 馬場孤蝶とは知人で、孤蝶宅に二度ほど泊まったことがある。
  • 明治27年春陽堂から出版された尾崎紅葉の『心の闇』には、川上眉山の小説「行水」が同時掲載。
  • 眉山は前田曙山の兄と幼友達だった。
  • 横山源之助は眉山を訪問し、一葉への紹介状を書いてもらう。
  • 明治30年、湘南地方を放浪し、「ふところ日記」を書く。
  • 明治40年、西園寺公望の雨声会に参加。
  • 明治41年6月15日、牛込弁天町で自殺。葬儀には西園寺公望も会葬した。
  • 眉山は明治38年(明治36年?)に里見鷲子と結婚。川上鷲子は後年の一葉女史碑の賛助人となった。
  • 盆栽が趣味で、草花を集めに出かけることもあり、数百種類を収集していた時期もあった。
  • 衣服は洒落なものを選び、流行のものを着ていた。
  • 囲碁や将棋も指したがあまり強くはなかった。

  1. 「川上眉山と我れとの間に、「結婚の約なりたり」といふうわさ成り」(『全集 樋口一葉3 日記編』299頁)・明治29年1月の日記。