教部省

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 明治5年3月14日(1872年4月21日)に設立された明治政府の省庁。当初設立された神祇省による神道による国家宗教の計画が挫折して、西本願寺派の長防グループによる政府への働きかけや西郷隆盛と江藤新平らによって教部省が設立。4月には三条の教則が発布、14級の教導職が教部省に属した。教導職では神道派と仏教派がほぼ拮抗して始まった。当初は江藤新平が御用掛として中心になり社寺の女人解放などの改革を行ったが、4月25日に司法卿となり教部省を去った。その後の御用掛には鴻雪爪などがいる。明治6年2月には11兼題、さらに10月には17兼題が公布された。明治8年1月に浄土真宗が大教院から脱退したことで、5月に大教院が廃止。明治10年1月11日に教部省は廃止され、内務省社寺局に移った。

 樋口則義は設立の年の明治5年5月17日に社寺取調掛となり、後に(『延喜式』の注釈書)『特選神名牒』となる神社の由来調査の業務を行った。明治6年12月23日に大講義の職を(東京府の職務と)兼任し、明治8年9月に大講義を辞職する。在職中に、則義は芝大神宮の祠官として(稲葉家の一族である)稲葉正邦を推薦したと思われる。教部省時代には、則義は月給が50円となり、彼の生涯ではもっとも高給となった。則義は教部省での仕事から芝との結びつきを持つようになった。その関連から長男の樋口虎之助が薩摩陶器の絵師としての入門があり、神田の荷車請負業組合の設立には芝の人脈があったといわれる。

 教部省の官吏の教則を徹底するために、紀尾井坂の紀州藩邸に大教院が設けられるが、明治6年2月に芝の増上寺に大教院が移設される。三条の教則、11の兼題、17の兼題が教部省が示した中心的な教義。明治政府による改革は宗教的混乱を生じさせることになった。

  • 島崎藤村の父は教部省考証課雇員として働いており、『夜明け前』の中でその当時のエピソードが盛り込まれた。
  • 大講義には、扶桑教の初代管長の宍野半がいる。
  • 一葉は上田敏と共に霊魂不滅説を語ったとされるが、11兼題の一つに人魂不死の説がある。
  • 教部省には、久米幹文などが所属していた。