斎藤緑雨

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 慶応3年12月30日(1868年1月24日)伊勢生まれ、明治37年(1904年)4月13日没。小説家・評論家。本名は斎藤賢(まさる)。筆名には、江東みどり、正直正太夫、登仙坊など。

 代表作「油地獄」(明治24年)など。江戸文学の継承者で皮肉な表現に定評がある。一葉の親しい知人の中では、当時の明治文学ではもっとも著名な作家の一人。一葉との関連では、森鴎外幸田露伴とは雑誌「めざまし草」での交流が知られているが、当時のさまざまな新聞社を渡り歩いていた。今日新聞、自由の燈、東西新聞、政論社、江湖新聞、国会、改進新聞、二六新報、時論日報、萬朝報などに所属を移し、読売新聞、めざまし新聞には寄稿のみ行った。当時の主要な新聞で自分のコーナーを持ち活躍した。坪内逍遥とは親しく一時期は月に一度訪問し半日か一日話をしていた。また内田魯庵とも親交が深かった。半井桃水とも新聞経由で知人だった。自分が死ぬ際には「僕、本月本日を以て目出度死去仕候」という死亡広告を自分で出稿した。幸田露伴によると、斉藤緑雨は酒を飲まなかったという。弟子には小杉天外がいる。

 何事にも凝り性で、下駄は伊勢由、床屋は薬研堀の勝床、鳥料理は浜町の筑紫、てんぷらは横山町の丸新などにこだわった。

一葉との交流

 明治29年1896年)1月8日に一葉は緑雨からの手紙を受け取り、文通を始める。その後、三人冗語で森鴎外、幸田露伴と共に、「たけくらべ」を高く評価し、5月24日になって緑雨は丸山福山町の一葉宅を訪れ、直接いろいろと話をするようになった。一葉の死後、樋口邦子への援助も行った。博文館の『一葉全集』の校訂者となった。

 緑雨は半井桃水とは一葉と出会う以前の東京朝日新聞社から交流があり、桃水が弟子の療養で一ヶ月鎌倉滞在時に、桃水宛に「御同行の一葉女史によろしく」と冷やかした(実際には一葉は不在)。雑誌「武蔵野」に、斉藤緑雨はエッセイを掲載しており、女性の弟子を持っていることを知っていた。また、桃水が最後に一葉を訪れたときには、緑雨の前では注意するようにと忠告を受ける。

 緑雨は一葉の人柄を正確に残すために、伊東夏子田中みの子に取材して彼女の性向閲歴を調査していたが、出版されることはなかった。

 一葉の病状が絶望的となった秋に、緑雨は本郷台町の戸川秋骨を訪ねてその後の相談をした。これが秋骨との最初の出会いだった。

 病気により緑雨は一葉の日記の編纂に参加できなくなり馬場孤蝶に託すことになるが、一葉を「めざまし草」に参加させようという森鴎外の意向を妨害したことが日記に書かれていたため、孤蝶にはその個所の削除を依頼していた。斎藤緑雨は晩年にあまり知人との交流がなかったが、孤蝶によると、日記の削除依頼のために孤蝶は緑雨とよく会うことになったという。

『あられ酒』(明治31年)所収「金剛杵」(130頁)に次の一葉評がある。

一葉の『にごり江』水蔭の『女房殺し』噂高ければわれも此程一読したりぬ『にごり江』は銘酒屋とききしもまことは麦とろなどといふ看板かけたると同じ流儀の曖昧茶屋の女が事なりげによく書かれたれどわれは其よくの上に女性に似ずといふ語を忘るる能はず天来の神助のと噪ぐは万事本をあけて見て初めて成程と合点する如き輩のおのれらが未聞かざる事実多きに先づ打たれたるにあらずやと思ふ駿河町を通りてお賽銭を投げしとの昔話も偽りならず

緑雨のエピソード

  • 内田魯庵によると、国会新聞の時代の緑雨が全盛期で、同僚には幸田露伴や石橋忍月がいた。
  • 紅連洞と同じ時期に、緑雨は明治27年11月に二六新報に入社し、総編輯という重要な立場にいた。文章の添削、仮名遣いの訂正、印刷工場への指示なども行っていた。
  • 吉原に行っても、登楼はせず廓内を歩き浴場を使い、おでんの立ち食いをしていた。
  • 源氏物語は悪文と批判していた。
  • 20才になる前から、河村伝衛から援助を受けて、花柳界での遊びを覚えた。河村伝衛は第百三十三国立銀行(現在の滋賀銀行)の頭取で、東京馬車鉄道の開設にも関与、また、彼は箱屋殺し花井お梅のパトロンとしても有名。
  • 緑雨は、今日新聞の小西義敬社長に連れられて、柳橋、吉原、新橋の花柳界に頻繁に訪れていた。
  • 一葉宅を訪問していた時期までは、お抱えの人力車を雇っていて、道に車夫を待たせていた。
  • 二人乗りの人力車で知人と会話することを楽しんでいた。
  • 緑雨の末の弟・小山田謙は一葉女史碑の賛助人となった。藩医の父を継いで医師となった。

緑雨の居住地

  • 本所緑町3丁目 - 明治23年明治27年。両親と同居していたが、明治27年8月に父逝去、9月に母逝去。
  • 駒込蓬莱町 - 上田萬年がたびたび訪問。
  • 本郷弓町高桑 - 牛鍋屋「いろは」が下宿屋の飯よりはましと語る。
  • 森川町の草津湯のそばの下宿屋簾藤 - 明治31年ごろから。経済状態がさらに悪化。大野洒竹も同じ下宿にいた。

著作