松岡徳善

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 天保4年(1833年)頃の生まれ、明治30年没。岐阜県恵那郡茄子川村出身。浄土宗の僧侶だったが、後に宮司。

 知恩院の僧侶だったが、江戸に上京、増上寺の六代将軍徳川家宣の御霊屋の別当で芝権現も兼帯。明治5年1872年)の神仏混淆の廃止で、僧籍を離れて神官となる。芝権現(現在の芝東照宮)の初代の祠官として明治10年まで勤めた。その後、愛宕神社の宮司となった(その後、愛宕神社は松岡家が代々継承)。事業家としても活躍し、最初のボール紙の制作、新橋駅から増上寺近辺までに広い土地を所有し、貸家を保有。青梅鉱山と日立鉱山を保有したが、鉱山開発で失敗した。洋画家の小林万吾(1870-1947)や黒田清輝を支援、川崎市の初代市長の小林吾助とは友人、大野伴睦の父・大野直太郎(岐阜県山県郡)も支援を受けた。高利貸も行っていた。

 徳善が則義との交流が始まった時期は不明で、真下晩菘のもとで働いていた時期、もしくは教部省に勤めていた時期の可能性がある。徳善は虎之助の師成瀬誠至のために、芝の丸山に窯場を作った。成瀬と松岡は茄子川村で同郷。

  • 泉太郎の香典帳に彼の名前がある。

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