森鴎外

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 文久2年1月19日(1862年2月17日)生まれ、大正11年(1922年)7月9日没。小説家・陸軍軍医。

 明治29年に、幸田露伴斎藤緑雨と共に雑誌「めざまし草」を創刊。三人冗語の中で、森鴎外は露伴と共に「たけくらべ」を絶賛した。鴎外の代理人として、三木竹二が訪ね、三人冗語に一葉を加えて「四つ手あみ」という創作月評をしたいと提案した。和田芳恵の説では、「めざまし草」の補強として、尾崎紅葉と樋口一葉を参加させようと森鴎外が計画していたのではないかとされる。

 鴎外は「たけくらべ」の着目点として「ローカルカラー」が新たな視点として確立されたことを指摘した。観念的な志向よりも、地方的な特色を小説に取り込むことに成功したという評価である。その後、徳田秋声はローカルカラーの問題を取り上げた。

  • 森鴎外の最初の妻・赤松登志子。登志子の兄・赤松範一は遠田澄庵の孫・遠田澄子と結婚した。
  • 森鴎外は一葉の病状が悪化していることから医師の青山胤通を紹介したが、絶望的な病状が判明し対処するすべがなかった。
  • 森鴎外は一葉の葬儀への馬上参列を希望したが、身内だけの葬儀であることを理由に樋口邦子に断られている。そのため、葬儀には蝋燭を送った。
  • 舞姫論争では、Jungfraulichkeit、処女性が主要テーマとなった。
  • 明治27年に、禿木が鴎外に紹介したことで、田中みの子の鎌倉紀行が「しがらみ草紙」に掲載された。
  • 木下杢太郎とは上田敏の洋行の祝辞会で初めて面識を持ち、その後も交流を持つようになった。
  • 鴎外は一葉の日記の一部を自筆で書き写し、それが小堀杏奴の蔵書の中に残された。
  • 一葉女史碑には賛助人として名前が刻まれているが、除幕式が10月15日に行われる前の大正11年(1922年)7月9日に死去。