樋口則義

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 天保元年(1830年)11月20日甲斐生まれ、明治22年1889年)7月12日没。幼名は大吉。実家は浄土真宗の万福寺の檀家。父は樋口八左衛門

 吉屋あやめたきと後に改名)との結婚が許されず、安政4年4月(1857年5月)に駆落ちをして江戸に生活の場を求めて上京(真下が援助していた博徒・祐天仙之助の勧めがあったとされる)。父・樋口八左衛門の友人真下専之丞の許に身を寄せる。当初は真下が蕃書調所の勤番組頭だったことから、安政4年7月17日から蕃書調所に小使として職を得た。安政5年8月15日(塩田良平の説では9月15日の誤記)、大吉は大番組与力の田邊太郎に連れられ大阪に行き、大阪城の勤番の仕事に就き、大阪城内東門屋に一年滞在。その間に京都奈良伊勢を見物。安政6年8月15日に大阪を出て、27日に江戸に戻った。この間に蕃書調所の職は辞め、八十之進と改名。幕末の慶応3年7月13日に浅井竹蔵から同心株を買い跡目を継ぎ(その際に浄土宗の浅草正安寺の檀家となる)、与力仁杉八右衛門の配下となる。3か月後の10月14日に大政奉還により失職。その後、明治維新を経て東京府の官吏となる(一時期は教部省の職も務めた)。官吏の時代の知人には、夏目漱石の父夏目直克芥川龍之介の養父芥川道章がいた。三人は仲が良く、庁舎内に一緒に落書きを残したとされる。大沼枕山などの漢詩人との交流もあった。

 晩年、則義は荷車請負業組合の経営に参加して資金を捻出するが、組合は借金を繰り返してすぐに解散となり、樋口家はその後、経済的困難に追い込まれることになった。

家族

 父は樋口八左衛門、母はふさ。弟に喜作がおり、則義が江戸に出たことから家督を継ぎ、文久2年に八左衛門を襲名した(樋口家の当主は代々、八左衛門を名乗った)。

 則義には、妻たきとの間に5人の子があり、安政4年(1857年)に長女ふじ、元治1年(1864年)に長男の泉太郎、慶応2年(1866年)に二男の虎之助明治5年1872年)に奈津こと樋口一葉、明治7年1874年)に邦子が生まれる。  明治2年2月2日に三男の大作が生まれるが、早くして亡くなる。詳細は不明。

一葉への影響

 則義は幼少期から勉学に熱心で、一葉はその影響を受けた。則義は一葉の才能を認めて萩の舎へ通わせるなど、一葉の文学的才能を開花させる道筋をつけた。一葉研究の中で、則義は一葉の社会的位置や文化的素養の基礎を与えたことから重要な研究対象になっている。

 則義の死後、樋口家は生計を立てるために苦慮し、当初は陶工家の兄虎之助と同居するがうまくいかず、一葉と邦子、母たきとの三人での生活を始めることになった。

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