樋口邦子

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 一葉の妹。明治7年1874年)6月22日生まれ、大正15年(1926年)7月1日没。邦子が生まれたとき、一葉一家は麻布区三河台町5番地に住んでいた。邦子は一葉と生活を共にして、一葉を支えた。一葉からの呼び名は「クーちゃん」。戸籍名は久仁。

 下谷龍泉寺町で荒物屋を開店していた当時は、主に邦子が店番、一葉は買出しに出掛けていた。一葉が文学に集中するようになってからは、裁縫の仕事や籐表の内職などを行って家計を支えた。明治24年1891年)8月3日の日記によると、蝉表職人の中でも邦子は一番の技術を持っていたとの噂があった。

 野々宮菊子とは邦子が最初に裁縫関連で知り合い、菊子の紹介で一葉は半井桃水と出会うことになる。ほかにも、邦子から交友関係が生まれた知人に、関悦子江木悦子)がいる。

一葉の死後

  • 明治29年12月14日に邦子が家督を相続。債権者から逃れるために、邦子は一時期は斉藤緑雨の依頼で、博文館大橋乙羽の許で半年を過ごした。このときに、邦子は泉鏡花と親しくなった。和田芳恵はその際に一葉日記の泉鏡花に関する文章が抜き取られた可能性を示唆している(『一葉の日記』)。時子の嫉妬から、邦子は大橋宅を去ることになった。明治31年2月4日に、母たきが亡くなる。

 明治31年暮れに吉江政次と結婚した(媒酌人は斎藤緑雨と言われている)が、戸籍上は明治32年11月28日に入婿で、樋口姓を継承した。12月5日に政次が家督を継いだ。その結果として、樋口姓が残った。西村釧之助より礫川堂文具店を譲り受けて経営(礫川は小石川の別表記。小石川表町六番地)。書籍の扱いもあった。二人の間に、六男五女が生まれた。

 一葉日記は死後邦子に焼き捨てるようにと命じられていたが、邦子は日記や草稿を死後も破棄できずに保管していた。散逸を恐れて写筆して別本の作成もした。結婚後、邦子は斎藤緑雨に日記の公刊を提案し、緑雨は露伴や鴎外に相談していた。その後、紆余曲折を経て、明治45年に馬場孤蝶編で『一葉全集 前編 日記及書簡文範』に収録され、初めて日記が公刊されることになった。

 大正12年(1923年)の関東大震災後、大正13年(1924年)に幸田露伴が引っ越し先を探していたとき、邦子は小石川の住宅を紹介することになる。幸田文(1904-1990)の『父・こんなこと』には、幸田露伴宅の近所の知人として邦子の姿が描かれている。

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