渋谷三郎

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 慶応3年10月16日(1867年11月11日)生まれ、昭和6年(1931年)4月14日没。江戸の幕臣で維新後に教育家となった真下晩菘の孫。父は真下晩菘の次男・渋谷徳次郎で原町田村の武蔵屋の当主であり、三郎は次男。長男は渋谷仙次郎。明治25年1892年)に阪本三郎となった。

 明治18年(1885年)、一葉(13歳)と渋谷三郎(19歳)が初めて出会ったのは松永政愛の家で、一葉は前年から松永政愛の妻に裁縫を習っており、三郎は東京専門学校に通っていた。松永政愛真下晩菘を通じて樋口家と親しく、また渋谷家との交流もあった。その後、一葉と邦子、樋口家に出入りしていた野尻理作、渋谷三郎は遊び友達となった。渋谷三郎の影響で一葉は男女同権を知るようになった。明治18年は大阪事件など自由党の急進派による事件が頻発し、渋谷三郎にとっても自由民権運動について再考をする必要があったと思われる。

 渋谷三郎は一葉の婚約者となったが、父の死後に破談。樋口家で結納金が十分に準備できないことが理由だったため、その噂が吹聴されることになった。文学界グループは渋谷三郎にいい感情を持っていなかったとされる。

 明治25年1892年)8月22日に新潟の裁判所の検事となった三郎が久しぶりに樋口宅を訪問。小説出版の費用の面倒を見ることや、坪内逍遥高田早苗への紹介を提案した。以降、再び交流が始まることになる。翌日に真下晩菘の伝記執筆を依頼される。三郎はこの上京の際に佐藤梅吉山崎正助のもとも訪れる。(この1892年8月に阪本タカの養子となり、阪本三郎となった。)9月1日に母たきが山崎正助に借金の依頼をした際に、三郎と一葉との結婚を勧められるが、母はその場で断っている。だが、その後も三郎は一葉との文通を続けることになる。明治29年1896年)7月12日に久しぶりに一葉宅を訪れ、歓迎されている。

 大正11年(1922年)10月15日に、慈雲寺に建てられた「一葉女史碑」建立の除幕式に参加する。その日の午後、大藤小学校で馬場孤蝶高島平三郎戸川秋骨の講演会が終了し、彼らが帰った後に、渋谷三郎は文学界同人には一葉への恋愛感情がなかったとする講演内容を批判した。

  • 渋谷三郎の父・渋谷徳次郎は真下専之丞とその側室クニとの子。クニは原町田の脇本陣にあった武蔵屋の娘。真下専之丞には、二男二女と養子一人がいて、長男は阪本姓、次男は渋谷姓。真下専之丞は32歳ごろに甲州石和代官所谷村出張所に勤めていた時期、江戸と甲州の間を往復することが多く、武蔵屋を常宿とした。そこでクニと知り合うことになった。
  • 明治14年1881年)融貫社が設立されると、仙次郎宅にはその事務所が置かれていた。
  • 明治15年1882年)7月に兄の仙次郎と共に南多摩郡原町田村の青年自由党員となった。

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