田中みの子

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 安政3年(1856年)島根県生まれ、大正9年2月24日没。歌号「梅のや」。戸籍名は美濃子。萩の舎で知り合った15歳年長の友人。

 出雲松江藩士落合鍬蔵の長女。母はたけ。弟に三男の陸軍中将の落合豊三郎(1861-1934)がいる。松江藩主・松平定安(1835-1882)が牛込神楽坂に住み、次女松平鑑子(あきこ・1870-1893)、四女松平鉞子(えつこ・1875-・後の三井得右衛門の夫人)、嗣子・松平直亮の妻・宜(細川護久の次女)が萩の舎に通ったことからみの子も入門。松平定安の母・光は鍋島直正の妹であり、鍋島直大の伯母。

 幼少期に両親と江戸に転居。明治6年(1873年)6月に十七才で田中市五郎と結婚、市五郎が生まれる。明治16年1883年)2月に二十代で夫と死別。その後に萩の舎に入門。一葉と共に、萩の舎の助教を勤めた。一葉はみの子が花柳界と関連があるとの噂を信じていた。晩年には、跡見高等女学校の教諭。

 一葉とは萩の舎での親友。小説を書き始めたころには、みの子と上野の東京図書館に行き、文学的な研鑽を行っていた。みの子は一葉の「みなし子」を新聞に掲載を依頼したが、掲載されなかった。中島歌子は自分のスキャンダルを田中みの子が画策したのではないかと疑い、一葉に事実確認を依頼したことがあったが、田辺花圃は一葉が調べていたことをみの子に打ち明けた。みの子の「鎌倉紀行」は平田禿木を通じて森鴎外に依頼し、梅園みの子の筆名で「志からみ草紙」58号(明治27年1894年)7月)に掲載。中島歌子と鎌倉で遊んだことを記した紀行文。「闇桜」や「たま襷」を歌子に読み、批評されている箇所もある。萩の舎に来ていた小出粲と料亭に出入りしていたという噂話があったこともある。

梅の舎の歌会

 歌子の門下では、田中みの子は早くから弟子を取ることが許されていたようで、一葉は明治24年1891年)5月31日に「みの子ぬしの発会三番町の萬源にて催」と記述。師匠の披露により門下を取ることが許されるには巨額の費用を必要とした。明治27年1894年)6月13日か14日にみの子主催の(数回目の)発会が開かれて、一葉が参加。会には22から23人ほどが集まり、小出粲も参加。このときに、小出は一葉を評価し歌道での研鑽を勧めている。

その他

  • みの子の谷中の家の二階に弁護士の勉強をしている書生がいたことがあり、一葉とみの子と書生の三人で話したことがあった。
  • 最晩年の一葉の写真は田中みの子と写されたもので、小川一眞の写真館で撮影された。
  • 東京図書館には一葉と一時期通っていた。
  • 息子の田中省三慈雲寺一葉女史碑に名前があり、樋口家の招待で式典に参加した。

短歌

 以下は田中みの子の歌。

あし引の山下庵も人なきに梅さく春の待たれぬる哉 (塩田良平『樋口一葉研究 増補版』p. 191)

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