田辺花圃

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 明治元年12月23日(1869年2月4日)本所生まれ、昭和18年(1943年)7月18日没。本名は田邊龍子、明治25年(1892年)11月19日三宅雪嶺と結婚後は三宅龍子。歌人の号は桜園(おうえん)。筆名には、瓢箪を意味する「ひさご」がある。明治の女性小説家で萩の舎では一葉の先輩格。

 明治9年から数年跡見花蹊の塾に通い、その後は自宅で和漢を学ぶ。絵は河鍋暁斎、琴は山勢松韻、三味線は杵谷お六に学んだ。明治18年に神田一ツ橋の東京高等女学校に入学し、理科と数学は下級クラス、英語は上級クラスで神田乃武から学んだ。

 明治20年1887年)3月に病気の花圃をなだめるために才八という書生が坪内逍遥の『当世書生気質』を見せたところ、花圃は自分でも書けると筆を執った。処女作『藪の鶯』を明治21年1888年)6月に金港堂から出版(花圃19歳・一葉16歳)。執筆の理由は(三井物産のロンドンの支店長だったが地中海で死去した)兄田辺次郎一(1865-86)の一周忌の法要の費用を考えてのことだった。原稿は坪内逍遥から添削を受け、福地源一郎の序、中島歌子の跋をつけて出版された。一葉は田辺花圃の成功を見て、小説を書くことを考えるようになったといわれる。父の田辺太一は旧幕臣で明治維新後すぐに政府内で活躍したが、花圃の小説執筆の動機となったように経済的には不安定な状態にあった。太郎一の法要には、中島歌子伊東祐命が参加、円朝の落語も余興で行われた。

 明治22年8月、江戸幕府300年にあたる東京開市三百年祭(会場は上野公園)では、横山孫一郎(大倉組商会の副頭取・ロンドン支店長・帝国ホテル支配人)らの依頼で歌を作り清元にして、吉原芸者がそれを歌いながら踊り、喝采を受けた。

 萩の舎で金がなくなり疑われた一葉が花圃に相談した時期には、田辺家には二三十人もの高利貸しと執達吏が来訪していた。執達吏がまもなく来るために、萩の舎の窃盗事件で一葉が泣きながら自宅に相談しに来たが、花圃はあまり気にするなと相手にしなかった。そのことで一葉は自分に腹を立て、その後の不仲の原因になったとしている。この時期、着物も十分ではなくなり、花圃が長襦袢姿で便所に隠れていたところを執達吏に見つかったが、あれはかわいそうだと帰っていったという。(帆刈芳之助『貧乏を征服した人々』泰文館、昭和14年、87-91頁)

 明治14年1881年)に花圃は萩の舎に通い出したため、一葉よりも5年ほど早い。花圃は明治19年1886年)の萩の舎入門当時の一葉の様子が生意気だったと振り返り、乙骨牧子が寿司皿に書かれた文字をふと言った言葉から、一葉が赤壁賦の一節をとうとうと口ずさむなどのエピソードを伝えている。『藪の鶯』の出版で出版社の金港堂のつてがあり、一葉の「うもれ木」の『都の花』掲載に力添えをして、序文を書いた。

 兄・田辺次郎一は中村正直の家塾同人社で巌本善治と共に学んだことから、巌本善治は妹の花圃を「女学雑誌」の執筆者として迎えていた。女学雑誌社は三宅花圃宅からすぐそばにあった。「文学界」には当初から参加。「文学界」という雑誌の名称の提案者だったと後年に花圃が語った。

 文芸倶楽部の特集号「閨秀作家」では、花圃は一葉と共に女性作家として特集された。一葉は博文館から花圃の写真掲載が了承されていて一葉の写真も求められた。だが、花圃は写真を掲載せずに自筆の短冊を掲載した。花圃は東京高等女学校に在籍時には教頭の能勢栄がお気に入りの女性との絵を講堂に飾ったのに立腹して外させたこともあった。

 伊東祐命は田辺家に出向いて花圃が10歳ごろから和学について兄と共に指導していた。明治19年頃に花圃は鹿鳴館の花と呼ばれることになった。

 明治27年5月7日に家門を開き、雅号を桜園とし発会を行った。一葉は歌塾開設の話を聞いて憤慨していたが、花圃の発会に参加した。上野公園内の会席料亭・桜雲台で行われた。宴会での酌は平民組の三人が対応した。伊東夏子によると、一葉が来て、酌をしようとすると、そっぽを向く変な奥さんがいるという。その人は禁酒会長・安藤太郎の妻・安藤文子だった。

 明治28年(1895年)9月に「にごりえ」が発表されると、花圃は萩の舎内で一葉の陰惨な小説を非難したことから、萩の舎では一葉に対して否定的な態度をとるようになり、歌子も同調することになった。

 花圃は歌子の死後に遺産執行人となり、遺産の処理にも立ち会った。一葉は中島歌子に対して十分な工面をしてくれなかったことに不満だったが、花圃は晩年の歌子の経済状態がよくないことを知っており、一葉はそのことを理解していなかったと指摘した。

 一葉が邦子のことを「クーちゃん」と呼んでいたことや、一葉に小説執筆の余裕を与えたのが邦子であると指摘した。(帆刈芳之助『貧乏を征服した人々』泰文館、昭和14年、90頁)

  • 明治22年頃に内田魯庵と知り合い、文通を交わす中だった。巌本善治の紹介で知り合った。魯庵は『罪と罰』の翻訳中であったことから、花圃にこの小説の話をよくしていた。花圃は一葉と魯庵が嫌い合っていたと対談で語ったが、事実関係が不明。魯庵の「チェッ」という口癖が不快だったらしい。
  • 佐々木信綱は田辺花圃に西鶴を勧め、それがきっかけで田辺花圃はかなり西鶴を読んだ。