真下専之丞

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 寛政11年(1799年)生まれ、明治8年1875年)10月17日没。本名は真下専之丞。号が晩菘、真下晩菘としても知られる。改名前は益田藤助。

 真下専之丞は同郷の甲州出身者を支援しており、安政4年(1857年)に樋口則義あやめを連れて駆け落ちしたときにも、勝海舟と並んで蕃書調所の要職にあったため部下として則義を使った。この蕃書調所が後の開成学校、東京大学の前身となった。幕府崩壊後に横浜で融貫塾を開設し後進を育てた。渋谷三郎によると、専之丞が支援して出世した17人のうちの一人が樋口則義だった。専之丞は一葉が3歳のときに没したため直接的な影響関係はないが、一葉の家族は甲州の人脈を大切にしていた。

 樋口則義も真下専之丞に倣い、経済的余裕ができてからは積極的に甲州出身者たちを支援していった。その一人が野尻理作である。

 また、則義は真下専之丞の孫に当たる渋谷三郎とも親しくなり、一葉の結婚相手としても考えていた(その後に破談)。

  • 御作事方書役出役の真下は品川の御台場構築で、甲州の天野開蔵に依頼し石切場の選定や人夫探しを行った。嘉永6年(1853年)ペリー来航から急遽建造され、安政元年(1854年)に品川台場など一部が完成した。則義とあやめが江戸に出た安政4年は3年後に当たる。
  • 甲州博徒・祐天仙之助は幕府から追われる身で猿橋を飛び降りて、その後、江戸にたどり着く。甲州人ということで専之丞に救いを求めてきたため、専之丞は勝沼に戻れるように援助した。その後、専之丞は浪士組の結成の人選を求められ、文久3年(1863年)に勝沼にいた祐天仙之助とその子分・菱山佐太郎を浪士組に参加させた。
  • 慈雲寺に顕彰碑があり、撰文が松平康國、篆額が徳川家達のもの。二人に依頼したのは阪本三郎。
  • 明治3年に中萩原村に戻り、放光寺と恵林寺に書画を寄進。放光寺には(目黒の羅漢堂で着想を得た)五百羅漢図を寄進した。
  • 放光寺には、五百羅漢図と同時に阿弥陀三尊図も寄進されていて、裏書には鵜飼徹定の裏書で「竺徹定識」との署名がある。鵜飼徹定知恩院第七十五世の僧侶で廃仏毀釈運動に反対した。知恩院の流れを組む僧侶に松岡徳善がおり、専之丞を介して樋口則義は徳善と知り合った可能性がある。
  • 教え子には、沼間守一(幕臣・自由民権運動家)、矢野次郎、上野忠三、志村源太郎(日本勧業銀行総裁)、荒川義太郎(横浜市長)、村野常右衛門(自由民権運動の政治家)、蒲生重章、石坂昌孝(融貫社・自由民権運動・政治家・娘の美那子は北村透谷の妻)などがいる。
  • 融貫塾で教えた蒲生重章の『近世偉人傳』(1877-1895年)の第三編上巻に晩菘伝が掲載。この書は永井荷風も評価した。
  • 村野常右衛門によると、横浜の開港地そばの高島町の妓楼には有名書家の書が掛けられていて、専之丞の書も並んでいた。
  • 一葉と邦子明治26年1893年)6月25日谷中墓地の墓参りで、網谷幾子の墓と真下の娘・黒川まき子の墓を訪れた。
  • 、真下晩菘と植村蘆洲(1830年生、1885年没)と編纂した『六名家詩釥』は、六人の詩人、藤森弘庵、大槻磐渓、大沼枕山、横山湖山、鷲津毅堂、梅痴上人の詩選集である。

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