華族

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 華族は明治維新後の明治2年6月17日の行政官の布告から昭和22年5月3日の日本国憲法の施行と同時に廃止された貴族制度。明治2年には、公卿(142家)と諸侯(285家)を華族として呼ぶことになったが、その後、明治17年に伊藤博文による華族令の制定により、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵位となった。

 萩の舎には、多くの華族の子女が通っていて、一葉とも交流を持った。公爵に岩倉家(公家)、侯爵に前田家(武家)、鍋島家(武家)、伯爵に松平家(武家)、子爵に水野家(武家)、中牟田家(勲功)。華族女学校に通う子女も萩の舎に来ていた。

  • 明治17年の華族令制定までに、伊藤博文と岩倉具視の間で華族の規定で対立があった。岩倉具視は血統・家格を重視し、伊藤博文は功績のある政治家・軍人への爵位を与えたいと考えた。明治16年1883年)7月20日に岩倉具視が死去したことで、伊藤博文が主導的に華族令を制定することになった。
  • 大久保利通の暗殺後の明治11年大久保家の華族への昇格は勲功華族の先例となった。
  • 前田家は徳川御三家に次ぐもので、将軍家とも親類だったが、幕末に朝廷側につくのが遅れたために、諸侯、侯爵となったと酒井美意子の発言がある。浅見雅男『華族の誕生』pp.21f.
  • 明治7年(1874年)6月、『華族会館』が発足。