萩の舎

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 萩の舎(はぎのや)は明治10年前後に設立された小石川区の安藤坂にあった中島歌子の歌塾。当時の住所は東京市小石川区水道町14番地。華族や中流以上の士族の夫人や令嬢が学んでいた。歌子は加藤千浪の門下で和歌や書道を学び、明治初頭の女流歌人として注目されていた。歌子の流派は江戸派であるが、香川景樹の『桂園一枝』を家集として重んじた。歌塾では、題目が決められて歌を詠んだり、歌会で相互に批評しあうなど、伝統的な和歌の素養をつみ、(加藤千蔭に由来する)千蔭流の書道を学んで歌を記した。その他に、『源氏物語』などの古典の講義も行われていた。

 稽古日は毎週土曜日。月次会は毎月9日、発会(ほっかい)は2月21日、納会は11月の月次会。発会は特に盛大で萬源などの料亭で行われた。この他に、門下では、田中みの子主宰の歌会、島尾広子宅や小笠原家でも歌会が行われていた。

 樋口一葉は明治19年8月20日に萩の舎に入門。伊東夏子田中みの子とは特に親しく、平民組と称した。萩の舎の塾生・門人には、華族、富裕層、平民という基本的に三つの区分があった。華族では、鍋島家、前田家、岩倉家などが中心となり、萩の舎にとって経済的・社会的な支えとなっていた。田辺花圃は華族ではなく第二のクラスに位置する。萩の舎内では、(田辺花圃の記憶では)一葉は「夏ちゃん」、邦子は「くーちゃん」と呼ばれていた。伊東夏子と同じ、なつ子であることから、一葉は「ひなつ」や「ひなこ」と呼ばれたとの話もある。

  • 萩の舎には、作歌専用の原稿用紙があり、一葉も使用した。
  • 「中島歌子刀自のこの萩をいたく愛で給ひて安藤坂の家の崖めきたる方をさながら前栽としてこの花のみ茂り植たまひしは、人がらもおもはれてやさしう慕はしと幼き程より思ひしみてき、月にみし露もさながら明る夜に匂ひくははる庭の萩原、とよませ給ひしもこの前栽にむかひてよませ給ひけん……」と三宅花圃は萩の舎の様子を記している(『花の趣味』(明治42年刊)161頁)。
  • 二軒隣には、嘉永年間創業で徳川ご用達の和菓子屋の紅谷(西岡家)があった。紅谷の支店が神楽坂にあった。紅屋と間違われることがある。

萩の舎の塾生・門人

歌会参加者

明治20年の集合写真

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 明治20年2月21日発会、九段の鈴木写真館(館主・鈴木真一)で撮影。

  • 最前列は、不明、不明、不明(塩田良平は田中みの子とするが不明)、伊澤夏子、不明、不明、不明。
  • 中央列は、不明(小川信子?)、不明、不明、不明、田辺花圃中島歌子、不明、不明(片山鑑子?)、田中みの子、不明。
  • 三列目は、不明、藤浦その子、樋口一葉、伊東夏子、不明、不明、不明。

明治24年の集合写真

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  • 上記の特定は塩田良平および新潮文学アルバムによるもの。戸川達子の名前があるが、入門は明治27年とされる。佐々木政吉は佐々木東洋の養子で医師。その妻が萩の舎に通っていた。

1922年頃の安藤坂

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  • 『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯』81番の写真。1922-23年刊行。

写真奥が伝通院。右側に萩の舎が位置する。