遠田澄庵

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 とおだ・ちょうあん。文政2年(1819年)生まれ、明治22年1889年)7月29日没。遠田澄庵(とおだちょうあん)は漢方医・奥医師として幕府に仕え、維新後は府立脚気施療病院で治療を行った。号は木堂。弟は遠田昌庵。

 則義は小石川台町の奥医師喜多村安正の下で医学書の出版を手伝うことになり、その後もこの家を訪れ、津山藩の澄庵と知り合った。詩書の素養も深く、澄庵が一葉を中島歌子の許に入門させるよう提案した(当初は澄庵は歌子とのみ言ったために、友人の荻野重省に歌子のことを聞いたところ、下田歌子ではないかということで、則義は下田歌子に入門を問い合わせた)。

 平田禿木は『文学界前後』(p. 141)で、遠田澄庵が脚気治療の名人として知られており、禿木が若いころに江戸橋の自宅に来たことがあったと記している。明治天皇は自身も脚気となり、澄庵の提唱する麦飯を導入することで病気を克服した。これに対して、森鴎外は白米の導入を推奨し、麦飯導入を科学的根拠なしとして糾弾した。

  • 大沼枕山や成島柳北は文久2年3月15日(1862年4月13日)の隅田川の花見を題材にそれぞれ漢詩を残し、そこに遠田澄庵(木堂)の名前が出てくる。この日は成島柳北(確堂学士)の主催で大沼枕山、鷲津毅堂、小橋橘陰、植村蘆洲、広瀬青村が集まり船で花見をしていると、偶然に芸者を乗せた大槻磐渓、遠田澄庵、桂川月池(甫周)、春木南華らの船と遭遇した。この当時から遠田の名前はよく知られていた。(『江戸詩人選集 第十巻 成島柳北 大沼枕山』(岩波書店, 1990)p.37f, p.247f.)
  • 息子は東京府士族の遠田注。孫の遠田澄子は赤松範一と結婚。赤松の妹の登志子は森鴎外の最初の妻。
  • 五女ひろ子は(一葉が紹介された当時)萩の舎に通っていた。明治1年7月27日生まれ、昭和22年9月21日没。明治27年に成田直三と結婚するがすぐに離婚。
  • 住居は江戸から同じで、市ヶ谷船河原町十五番地。
  • 牛込区市谷船河原町拾七番地 遠田脚気病院。
  • 友人には、石黒忠悳がいる。