野尻理作

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 慶応3年(1867年)9月12日生まれ、昭和20年(1945年)9月18日没。一葉姉妹との幼馴染で、「ゆく雲」の野沢桂次のモデルとされる。戸籍名は利作。玉宮村の酒屋の息子。

 甲州出身であることから帝国大学進学時に樋口則義が理作の保証人となり学費などの面倒をみた。その際、樋口宅にも寄宿していた。上野兵蔵宅に下宿の時期もあった。学生の時代に、一葉姉妹や渋谷三郎と仲良く交流して、森鴎外の『シルレル伝』、坪内逍遥の『マクベス評註』、俳諧論などを論じ合っていた。明治23年に帝国大学を中退し山梨に戻る。

 兄の野尻大作が出資者となったことから『甲陽新報』の編集の主幹となり、創刊一か月後の明治25年1892年)9月23日に一葉に「經つくゑ」の執筆依頼を行った。「ゆく雲」の野沢桂次のモデルとされる。

 一葉に対して恋愛感情を持ち、一葉も意中の人の一人として野尻を考えていたとされる。樋口邦子は野尻との結婚を考えていたが、明治26年1893年)3月15日に広瀬七重郎から野尻と西山加寿子との同棲が知らされた。一葉姉妹がなだめ合った記録が和歌として残されている。理作と加寿子は甲州の愛宕神社そばに宮司小山千織(理作の親類)が作った別荘で同棲。その後、横浜へ移転するが、二人が籍を入れることはなかった。その後、横浜の芸者出身のゆうと結婚した。横浜民報の幹部記者となった。

 理作の墓は甲府市の愛宕神社にあり、妻ゆうと一緒になっている。西山加寿子の墓はそのすぐそばにある。西山加寿子については詳細不明。法名は宝寿院涼覚理翁居士。

  • 樋口則義の死去の際には、新聞社への死亡広告の依頼や築地西本願寺への連絡を行った。
  • 明治24年11月9日に山梨県の代議士田邊有栄が一葉宅を訪問し話をした。明治33年(公道会派の銀行に対峙する)山梨銀行創設時には田邊有栄と野尻理作の兄・野尻大作が取締役となった。
  • 兄の野尻大作は東京にいた頃には麹町4丁目の漢学塾・就成館に通い、上野兵蔵宅に寄宿していた。弟の理作の金を工面していた。