青山胤通

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 安政6年5月15日(1859年6月15日)生まれ、大正6年(1917年)12月23日没。

 森鴎外と共に、脚気は感染症との説を固持した。 樋口一葉の結核の症状が末期のものだと診断した医師。斎藤緑雨の依頼で森鴎外が紹介した。青山の妻は小林好愛の長女幸子(孝子)で明治21年に結婚した。一葉は明治27年6月20日の日記で、香港政庁の依頼で北里柴三郎と青山胤通が香港にペスト菌の調査に行き、青山がペストになったことについて「知らぬ人にもあらぬ仲なれば、殊に哀なり」と言及した。

  • 森鴎外とは学生時代から親しかった。脚気論争では、森鴎外を支持。
  • 愛煙家・囲碁好きとしても有名。大隈重信が療養中に頻繁に囲碁を打って、夫人から小言を言われることもあった。葉巻好きだったことが知れ渡ると、青山の許に葉巻が送られるようになり、その余りが門下生に渡されるようになった。
  • 父・青山景通は美濃国苗木藩の下級武士で平田銕胤の門人。藩内で廃仏毀釈運動を進める中心人物となった。
  • 青山胤通は平田延胤の養子となったが、延胤の死後に養子が解消され、名前を助松から胤通へ解明した。その後、西洋医学を学ぶことになる。