「鍋島栄子」の版間の差分

提供: nigowiki
移動先: 案内検索
 
 
(同じ利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
 安政2年5月18日(1855年7月1日)京都生まれ、昭和16年(1941年)1月3日没。肥前佐賀藩主で後の侯爵の鍋島直大の継室。ローマで直大と結婚した。鹿鳴館の華と戸田極子と並び称された。娘の[[梨本伊都子]]と共に[[萩の舎]]で歌を学んだ。
+
 安政2年5月18日(1855年7月1日)京都生まれ、昭和16年(1941年)1月3日没。肥前[[佐賀藩]]主で後の侯爵の鍋島直大の継室。ローマで直大と結婚した。鹿鳴館の華と戸田極子と並び称された。娘の[[梨本伊都子]]と共に[[萩の舎]]で歌を学んだ。
  
 
 [[明治26年]]([[1892年]])7月9日に[[明治天皇]]が三階建てという当時珍しい永田町の西洋館の完成を記念して訪問。そのときに、[[中島歌子]]も同席した。この他、伊達宗城、徳川家達、細川護久、前田利嗣などが列席した。
 
 [[明治26年]]([[1892年]])7月9日に[[明治天皇]]が三階建てという当時珍しい永田町の西洋館の完成を記念して訪問。そのときに、[[中島歌子]]も同席した。この他、伊達宗城、徳川家達、細川護久、前田利嗣などが列席した。
9行目: 9行目:
 
* 幕末に[[網谷幾子]]は鍋島直候未亡人の慈貞院と親しく、その後[[中島歌子]]と鍋島家との関係がさらに強まっていった。
 
* 幕末に[[網谷幾子]]は鍋島直候未亡人の慈貞院と親しく、その後[[中島歌子]]と鍋島家との関係がさらに強まっていった。
 
* [[明治15年]]頃、[[田辺花圃]]は中島歌子に同行して鍋島家の出稽古に行った。その時に、前田家に嫁ぐ前の[[朗子]]、幼少期の[[梨本伊都子]]、[[牧野茂子]]、[[松平信子]]と会っている。
 
* [[明治15年]]頃、[[田辺花圃]]は中島歌子に同行して鍋島家の出稽古に行った。その時に、前田家に嫁ぐ前の[[朗子]]、幼少期の[[梨本伊都子]]、[[牧野茂子]]、[[松平信子]]と会っている。
 +
 +
* 佐賀藩は長崎警護役を1年おきに努めたり、蘭学の導入も盛んであり、幕末には蕃書調所に次ぐ洋書730冊余り蔵書としていた。戊辰戦争では、イギリスから佐賀藩が輸入したアームストロング砲が活躍した。こうした海外への関心が鍋島家の伝統となった。山口太郎太の台湾の現地調査の支援を副島種臣と共に鍋島家が行った。
  
 
[[Category:交流のあった人物]]
 
[[Category:交流のあった人物]]
 
[[Category:萩の舎]]
 
[[Category:萩の舎]]
 
[[Category:華族]]
 
[[Category:華族]]

2016年10月2日 (日) 03:24時点における最新版

 安政2年5月18日(1855年7月1日)京都生まれ、昭和16年(1941年)1月3日没。肥前佐賀藩主で後の侯爵の鍋島直大の継室。ローマで直大と結婚した。鹿鳴館の華と戸田極子と並び称された。娘の梨本伊都子と共に萩の舎で歌を学んだ。

 明治26年(1892年)7月9日に明治天皇が三階建てという当時珍しい永田町の西洋館の完成を記念して訪問。そのときに、中島歌子も同席した。この他、伊達宗城、徳川家達、細川護久、前田利嗣などが列席した。

 大橋乙羽は樋口一葉を通じて鍋島栄子などの書を掲載する依頼を行い、その後、出版された。

 一葉女史碑の建立の際には、石碑に彼女の名前も記されている。

  • 佐賀藩は長崎警護役を1年おきに努めたり、蘭学の導入も盛んであり、幕末には蕃書調所に次ぐ洋書730冊余り蔵書としていた。戊辰戦争では、イギリスから佐賀藩が輸入したアームストロング砲が活躍した。こうした海外への関心が鍋島家の伝統となった。山口太郎太の台湾の現地調査の支援を副島種臣と共に鍋島家が行った。